時間にはね、決して『実際は』というようなことはないんだ
Winter's coming
サマータイムが終わり今日から冬時間。
日本との時間は1時間プラスになり8時間。
日本人の私にはちょっと慣れない、年に2回のこの時間の切り替わり。
夜中の3時に時間が1時間巻き戻り、PC、ipadの時計は自動で再び2時に。
ということで、今日は1時間得をしている。
今朝起きたらキッチンの時計はサマータイムのままで、ちょっと混乱。
と同時にほっとする。
時計は11:00を指しているけれど、あぁまだ10:00なんだ。
今日だけだけど。
なんだか変なかんじ。
きのうまで11:00だった時間が今日は10:00。
いやなのが、いっきに陽が短くなってしまうこと。
1日にして暗くなる時間が1時間も早くなるって。やだ。
だけど、今日もベルリンの空は時間を感じさせてくれない。
朝からグレー。お昼を過ぎてもグレー。陽が沈むまでグレー。
トーマス・マン『魔の山』
海外に来るとその国の文学が読みたくなる。
前々から気になってはいたものの、分厚い上下巻を目の前に手が出せずにいたトーマス・マンの『魔の山』。
でもせっかくドイツにいるんだからこの機会に読んでみようかな、と夏に読み始めたものの挫折していた^^;先週再び再開してたまたま読んでいた箇所の主人公ハンス・カストルプの時間に関する哲学が印象的だった。
時間にはね、決して『実際は』というようなことはないんだ。長いと感ずるんなら長いんだし、短いと感ずるんなら短い。それが実際にはどれくらい長いのか、または短いのか、そんなことは誰にもわからないじゃないか
秒針が回ること、これはひとつの運動、空間的な運動にすぎない、そうだろう。そうか、つまりぼくたちは時間を空間で計っているんだ。しかしね、これは空間を時間で計ろうということにはほかならない、―空間を時間で計るのは、おそろしく非科学的な人間がやることなんだ。
われわれは空間を感覚器官で、すなわち視覚と触覚とで捉える。それはいい、しかしながら、どの機関がいったち時間を捉えるのか。お教え願いたい。ほら、わからないだろう、そうだとしたら、もしぼくらが厳密にはそれについてなんにも知らないもの、そのたったひとつの性質さえ挙げることのできないものを、どんな方法で計ったらいいというんだ。普通ぼくたちは、時間が経つ、という。よろしい、時間が経過するとしよう。だが時間を計ることができるためには、まあ、待ちたまえ、時間が計ることのできるものがあるがためには、時間は一様にむらなく経過しなければなるまい。しかし時間がそんなふうに一様に経過するなんて、どこにそう書いてあるだろうか。ぼくたちの意識からすれば、時間は決して流れるものと仮定しているにすぎないので、従って、ぼくたちの時間単位なんてものは単なる約束ごとのひとつに過ぎないのさ
時間て、一番みんながなんの疑問も持たずに従っている規則なのかもしれない。
当たり前すぎて疑問にすら思わない規則。
誰もが平等に与えられていると思っているもの。
確かに平等に与えられてはいるのかもしれないけれど、その感じ方はひとそれぞれ。
ワーホリという1年と期限の決まった時間の中にいる今。
ドイツに来たばかりの頃をはるか遠い日々のようにも感じるし、あっと言う間に7か月も過ぎてしまったという焦りもある。
自分という一人の人間の中ですら、同じ時間を捉えるのに二つの感覚がある。
日本にいるときよりもはるかにのんびりと過ごしている今の自分、そしてそのことに少し罪悪感を感じている自分。
ぐだぐだ言ってないで行動しなさい!時間は有限なんだから!
っていう自分と
人生の中の1年くらい、少しのんびりしたっていいんじゃない?
っていう自分。
季節に逆行してアクティブにいきますよ!