皇帝のもと栄えた中世の街、ニュルンベルク
あっという間に2015年が終わってしまいますね。
なんだかちっとも実感が湧きません。
ドイツではクリスマスが日本のお正月のようなかんじもあるので、クリスマスが終わってから、年末が消化試合のような感もありました。
さらに、風邪をひき動く気になれなかったこの数日。
12月中の旅行記は今年中になんとか書いてしまいたいところでしたが、ハイデルベルクは来年に持ち越しです。。
ということで、クリスマスマーケット編を書ききって燃え尽きてしまっていたのですが、せめてニュルンベルクのクリスマスマーケット以外の旅行記は書いてしまいたいと思います。
かつては、交通の要所であり商業が発達し、多くの神聖ローマ皇帝の拠点ともなり中世には重要な都市として栄えたニュルンベルク。
1933年には第一回のナチ党大会が開かれるなど、ナチスにとっても重要な街であったことから第二次世界大戦では爆撃を受け街の90%が破壊されています。しかし、そんな事実を知らなければ分からないくらい見事に中世の街並みが復元されています。
Lorenzkirche ローレンツ教会
中央駅を出て、城壁に囲まれた旧市街の中へ。Königstraßeを歩いていくと右手に現れるローレンツ教会。
1255年にゴシック様式のバシリカとして建設されたこの教会は1439年から1477年に内陣が追加され完成しました。
ドイツに来て以来ゴシック建築の教会に行く機会がほとんどなかったので、久しぶりのゴシック教会に、吸い込まれるように見入ってしまいました。
一見シンプルな教会ですが、奥へと進み内陣が目に入ると、光に満ちたその空間の豪華な装飾品たちに目を奪われました。
この教会、装飾品が豪華でまるで美術館よようでもありました。
曲線が美しいシャンデリア
キャンドルを持つ天使たち
特に有名なのが、このVeit Stoß作の受胎告知。1517年作の木製彫刻です。
装飾品だけでなく、建物の建築も目を惹きます。木の枝のようにめぐらされた天井のヴォールト。
窓の下のバルコニー部分の装飾も、よく見ると一辺一辺違う模様になっています。
天井にまで達するAdam Kraft作の聖餐壇
この聖餐壇を支えるこの男性は、Adam Kraftの自画像だと言われています。
そしてこの教会を見学している間中、オルガンの練習中で音楽が響き渡っていたんです。こんな箱の中でオルガン演奏していました。
でも音が出てくるのはバラ窓を取り囲むこのパイプオルガン。
音楽に包まれながらたっぷり1時間近く教会を見学してしまいました。
Kaiserburg 皇帝居城、カイザーブルク
ハウプト広場を後にして坂を登りカイザーブルクに向かいます。
丘の上に建つカイザーブルクからはニュルンベルクの街を一望できます。
雨なのが残念ですが、オレンジ色の屋根に教会の鐘楼、ロマンチックな街並みです。
神聖ローマ皇帝の居城だったカイザーブルク。
このお城の最も重要な部分、二重構造の礼拝堂は城内の博物館と共に見学できます。
Doppelekapelle、二重構造の礼拝堂。
入口の部屋から続くこの礼拝堂、いま立っている部分は2階部分でこの下の階にも礼拝堂があります。
下の階は宮廷に遣える人々のため、上の階は高位の貴族や皇帝一族のための礼拝堂と、当時の階級制が現われています。
下の階に降りることはできませんが、上から覗くとこんなかんじ。
この皇帝居城に居を構えた皇帝として特に有名なのがカール4世。1356年の金印勅書はここニュルンベルクで発布されました。
カール4世の金印勅書、世界史で習い名前だけはしっかり覚えているものの、その内容がなんだったか、そもそも「金印勅書」って名前はかっこいいけどなに?
と、長年の疑問だったのですが、博物館にはしっかり金印勅書の解説もありました。
こんな、金印で閉じられた文書だったんですね。
改めて、日本語での解説を引用すると金印勅書とはこんなものです。
1356年、神聖ローマ皇帝カール4世の時に定められた、神聖ローマ帝国の帝国基本法である。従来も神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は諸侯によって選出されていたが、その選出でしばしば紛争が生じ、とくに大空位時代のようにドイツ以外から選ばれたり、皇帝が選出できなかったりという異常事態が続いていた。ベーメン王から皇帝に選出されたカール4世は国王選挙手続きを成文化して混乱を避け、その権威を安定させる必要に迫られた。そこで、1355年のフランクフルトの帝国議会で原案が作成され、翌年のメッツの帝国議会で補足されて、公布されたのが「金印勅書」である。
それまで、神聖ローマ皇帝の選出についての決まりがなく、皇帝選出にあたって問題が生じることが多々あったため、皇帝選挙のルールを定めた法なんですね。
ここで皇帝を選定する選帝侯に定められたのが、マインツ、トリーア、ケルンの三聖職諸侯、プフアルツ(ライン宮中伯)、ザクセン、ブランデンブルク、ベーメン(ボヘミア)の四世俗諸侯の計七侯です。
ではなぜ金印勅書がドイツ史にとって重要なのか、その意義について
金印勅書は神聖ローマ帝国、つまりドイツの最高国家法規として位置づけられ、形式的には1806年の神聖ローマ帝国消滅時まで効力を保っていた。その規定は、神聖ローマ皇帝の選挙規定であると同時に帝国議会(諸侯会議)の規則であり、さらに選帝侯の領邦(ラント)主権を認めたものであったので、以後のドイツの分権国家としての枠組みが作られたと言ってよい。
ということで、この法によって現代ドイツの連邦制につながるような、地方分権制度が確立されたんですね。
カール4世についてもう少し。
彼はボヘミア王カレル1世でもあります。
ボヘミアは現在のチェコ西部。そうです、彼はプラハ生まれの王様なんです。金印勅書でドイツ史にも大きな功績を残していますが、プラハの発展にも欠かせない王様です。プラハ大学を創設したり、観光名所のカレル橋は彼の治世に建設されました。プラハ城内の世ヴィート教会も彼が王子だった時代に完成しています。
プラハにも行ってきたばかりなので、図らずもこうして彼の納めた2つの都市を訪れることができて、点と点が線で繋がる感じっていうのかしら。
世界史大好きだった高校時代、受験のためひたすら丸暗記するばかりだった歴史上の人物や出来事を、こうしてゆかりの地で実物(レプリカですが)を目にすることができるってすごく楽しい。
と同時に、日本とは無縁の歴史をよくもまぁあんなに頭に詰め込んでいたなとも。今こうして実際の地を訪れてみて、ようやく少しその歴史的意味だったりが分かるのに、あの頃の“勉強”って本当に中身のない表面的なものだったなぁと思ったりします。
と、自分の世界史知識の復習を兼ねた歴史の話でした。
画家アルブレヒト・デューラー作のカール大帝の肖像画。
デューラーはニュルンベルク生まれです。(なぜだかフランドルの画家だと思っていました^^;)
彼が手に持っているものも展示されています。
皇帝の王冠
皇帝についての展示の後は、武器コレクション
初めて見た、馬用の甲冑
結構真剣に展示を見学してぐったり・・・
来たのとは反対側からお城を後にし、Platz am Tiergartnertorへ。赤い木組みの家が印象的な城壁に囲まれた広場です。
この広場の一角にアルブレヒト・デューラーの家があります。
この様に、一階部分は石造りの半木造住宅はニュルンベルクの街並みの特徴で、キッチンのある一階は石造りにすることで火事の被害を防ぐ目的があるそうです。
かつてはなめし皮などの職人さんの住まいが並んでいたという、美しい景観を残したWeißgerbergasse
ニュルンベルクの旧市街を南北に分けて流れるPegnitz川に浮かぶほんのちっちゃな島Trödelmarktinselに建つ小さな塔(写真では木の陰に隠れてしまっている)はかつての死刑塔で、川岸に建つレンガの建物がHenkerhaus(死刑執行人の家)、それらをつなぐ橋はHenkersteg(死刑執行人の橋)と名付けられています。その横の木組みの家はWeinstadel(ワイン小屋)
ニュルンベルクの撮影ポイントのひとつです。
最後にHauptmarkt中央広場に戻ってきて、Frauenkirche。
1362年にカール4世の治世のもと完成したホール様式のゴシックの教会。
この教会の時計は仕掛け時計になっていて、1日1回、正午にだけ動きます。
1506年に設置されたもので、カール4世の金印勅書にちなんで、皇帝を囲むように7人の選帝侯が出てきます。
それにしても、500年以上も前からこうして毎日時を刻んでいる時計、この時計が見てきた時の流れを考えると気が遠くなりますね。
この広場にはもうひとつの見どころ、Schöne Brunnen(美しの泉)というゴシック様式で装飾された泉があるのですが、残念ながら工事中でした。
以上、世界史好きにはとても興味深いニュルンベルク。城壁に囲まれた旧市街は1日あれば見て回ることができました。街並みが美しいので歴史に興味がなくてもおすすめです。
ついついクリスマスマーケットに気をとられてしまいがちだったので、また別のシーズンにぜひお天気のいい日に行けたらいいなと、余韻を残してくれる街でした。
2015年のブログはこれが最後になりそうです。
今年は暖冬らしく暖かい日が続いていたのに今日は最高気温も2度。ちょっと外に出るのが苦になる陽気です。体調も芳しくなくバタバタと新年を迎えることになりそうですが残り数時間は一年を振り返ってみようと思います。
みなさま、よいお年を。