ベルリン冬の散歩 Zitadelle Spandau シュパンダウ要塞
土曜日の夜に降り始めた雪で白銀の世界だった日曜日。
いつもとは違う景色を見に、ちょっとだけ遠出の散歩に行って来ました。
ベルリンの西の端、Spandau(シュパンダウ)へ。U7の終点です。
なぜ雪の中わざわざ自宅から真逆の地へ足を伸ばしたか?
ルネッサンス様式の要塞があるというので行ってきたわけです。(別に雪は全く関係ないんですけどね)
ベルリンに要塞?そんなのあるの??
と行くまでちっとも想像できなかったのですが、なかなか立派な要塞で、博物館も併設されています。
こーんな、手裏剣のような?おもしろい形をしているZitadelle Spandau(スパンダウ要塞)。
1557年にイタリアの建築家Francesco Chiaramella de Gandinoによって着工された、16世紀の理想的な要塞だそうです。ベルリンに近く、シュプレー川とハヴェル川が交わるこの場所が要塞を築くには最適ということで、ブランデンブルク辺境伯ヨーアヒム2世によって建てられました。
橋を渡って川に浮かぶ要塞へ。
要塞を取り囲む川?池?も凍って一面真っ白です!
まずは門を入ってすぐの博物館へ。
スパンダウ要塞の歴史について展示されています。
この博物館の一番最初にあって私が一番気に入った展示。
歴代の兵士たち?の帽子コレクション!!
こんな尖がりがついた帽子、世界史の教科書に載ってたビスマルクも被ってたよね!?
骸骨がついたのは何なのかしら?
要塞内で最も初期に建てられた塔。上に登ることができます。
螺旋階段を登りきり、上からの眺めがこーんなかんじ!!
左手に見えるスパンダウ旧市街のニコライ教会がいい感じ!
本来は壁の上も歩けるそうなのですが、この日は滑って危ないからと立ち入り禁止でした。
博物館を出て雪で真っ白な庭を散歩
要塞内には博物館の他に、 Archäologisches Fenster Burg Spandauと名のついた考古学展示室もあります。
今の要塞が建てらる前、もともとこの場所にはスラブ系民族が11~12世紀に建てた、集落を取り囲む要塞があったそうで、その発掘場所が屋根を付けられて展示室になっています。
木枠と土を使った要塞だったそうです。
この他にもう一つ、シュパンダウの街の歴史を展示した博物館があります。
ベルリンの端っこ、なかなかマニアックな歴史に触れられるシュパンダウ要塞でした。
要塞を出て、シュパンダウ旧市街へ。
黄色とオレンジのグラデーションになったカラフルな建物が目を惹きます。
旧市街のトレードマーク?ニコライ教会。
その前には要塞を建てたヨーアヒム2世の銅像が。
ベルリンにもこんな街並みがあったのね、という可愛らしい風景です。
雪の中、新たなベルリンの一面に出会う散歩でした。
Spandauer Zitadelle
Zitadelle, Am Juliusturm 64, 13599 Berlin
フラメンコ教室で感じるドイツと日本の違い
9月からベルリンでも習い始めたフラメンコ。
来週末の発表会に向けて『ソレア』という曲を練習中です。
ダンス留学でもなんでもないただの趣味ですが、日本のフラメンコ教室と比べて違いを感じるところがあるので、それについて書いてみたいと思います。
基礎への重点の置き方の違い
私がフラメンコを習い始めた頃に感動したのは、ちょっとした腕の角度だったり体のひねり方で見た目の美しさが変わること。一瞬の動き、ポーズに美しさを求めること。
きっと、バレエや体操を習っている人にとっては当たり前のことなんだろうけれど、それまで全く体を使って表現する類のものをやったことのなかった私には、そのことがものすごく新鮮でした。
だって普段の生活で鏡で身だしなみ、お化粧をチェックすることはあっても、立ち姿の美しさまで追求するようなことってなかなかないでしょ?
レッスンではお教室の前面がすべて鏡になっているので、レッスン中常に自分の全身と対面することになります。このこと自体、なんだか照れくさくて新鮮でした。踊るだけでなくて美しく見せることも追求すること、これが「踊り」ではなくて「舞踏」ってものなのか、と感銘を受けたのです。
フラメンコはバレエほど体の柔軟さは求められないし、体型も関係ない。むしろお尻や胸にボリュームがあったほうが見栄えがするので、大人になってからでも気軽に始められるダンスです。
ちなみに、日本は本場スペインに次いでフラメンコ人口が世界第二位だそうです。
バレエに比べてストイックな体作りは必要としないにしても、闇雲に踊っていてもだめで、やはりある程度姿勢に関する基礎、フラメンコらしく踊るコツみたいなのはあります。
その基礎を教え込むことへの重点の置き方が日本の教室と今通っている教室では違うなぁと感じています。
日本で通っている教室では、習い始めて5年以上経ついまでも、何度も何度も体の使い方を注意されるし、一瞬の振に対しても時間をかけて一人一人丁寧にどうしたらもっと美しく、フラメンコらしく踊れるのかということを教えてくれます。
それがベルリンのお教室では・・・
ちなみに、先生はアントニオ・ディアス先生。
スペイン人!!
と思いきやのポルトガル人(笑)男性の先生です。
たしかに、ところどころポイントとしてポーズの取り方、体の使い方を説明してはくれるけれど、だからといってそこでストップして時間をかけて正しい姿勢で踊れるようになるまで教え込むということはないんです。
だから、今のクラスの他の生徒さんたちもみんなフラメンコ歴5年程度で私と同じくらいだけど、私が見ても、あぁ~そんな踊り方してたら日本の先生だったら絶対注意するだろうな~って踊り方をしている。
そんな光景をちょっともどかしく思いつつも考えた。
日本の先生は細かすぎるのかしら。趣味なんだしそんなに厳格に教えこまなくても楽しく踊れていればいいのかしら。
たしかにいちいち基礎にばかり気を遣っていたら楽しさが半減してしまう気はする。思うままに体を動かしていればいいんじゃないか、という気もする。
趣味の教室であっても完成度の高さを追求する日本。
趣味なんだし完成度はそこそこに自由に踊らせるドイツ。
型にはめて基礎をきっちり教えるのが日本式。
趣味のダンス教室をとってみても、こうして生真面目に細部にまでこだわる日本人の気質ってでるのね、と感じつつ、もうちょっと考えてみた。
例えば生け花とフラワーアレンジメントと比べてみても、気分やコンセプトに合わせて自由に創作できるフラワーアレンジメントに対して、生け花には活け方の指針となる伝統的に受け継がれている型がある。茶道もそう。
基礎の型を重んじるのは、日本文化の特徴であって日本人のDNAに伝統的に染みついているものなのかもしれない。
同じ「フラメンコレッスン」に対するアプローチにこうして日本とヨーロッパで差がでるのはちょっとおもしろい発見でした。
(ちなみに、フランスで一度だけフラメンコ教室に参加したときもこんなかんじでした)
私は日本式のきっちり教えてもらえるのに慣れてきているので、やっぱりそっちが好み。だって先生みたいにかっこよく美しく踊りたいし。
今習っている『ソレア』、私はみんなより半年遅れて習い始めたけれど今では完全に追いついて一番正確に踊れています。
これは日本で基礎を教え込まれてきたおかげだし、やっぱり基礎がしっかりしているって強いんだなと感じるところ。
ピカソだってちゃんとしたデッサンが描けるし、書道も行書を書くには楷書がきちんと書ける必要があるように、どんな芸術でも基礎は大事ですよね。
ただ、こうして型通りに踊ることを教えられてきているので、表現力には欠けるんだろうな、とは思います。正確に踊ることはできても、「内面から溢れる情熱を体で表現する」みたいなことは苦手です。苦手というのか、型の破り方が分からない、という感覚かな。
これってフラメンコ教室だけじゃなくて、教育についても同じことが言えるんじゃないかと思います。
例えば語学学習。日本人はテキストに忠実に文法を覚えるのは得意でも、それ故に間違いを恐れて発言するのが苦手。ヨーロッパの学生たちは文法はちゃめちゃでもとにかく発言する。とか。詰め込み式教育を受けてきているので、ヨーロッパ人に比べて自分の意見、考えが言えない、とか。
と、フラメンコから話がそれてしまいましたが、よくも悪くも日本人は型にはめられることを刷り込まれてきているんだなぁと感じるのです。
振付は先生の気分次第!?
本場のフラメンコはギターリストが踊り手に合わせてくれる、踊り手が即興で踊っていいものです。もちろん、曲によってある程度決まった振りはありますが。
でも私たちみたいに趣味のお教室ではちゃんと振付が決まっていてみんなで全く同じ振付で踊ります。
それが、アントニオは週によって振りが変わることがある。
私は真面目に家に帰ってもその週習った振りは忘れないように復習しています。
それなのにせっかく覚えていった振りがそっくりそのまま次の週にはカットされることも(笑)
えぇーーーーー先週あんなに練習したじゃん!!なんだったのさ、あれは!?
みたいなことが何度かありました。
自由。
しかもアントニオ、毎週のように振付を忘れる。しかも毎回同じ箇所。
「あれ?この次なんだっけ?」で私がこうです、って教えてあげて「あぁ、そうだそうだ!」っていうのが何度もありました。先生しっかりー(笑)
あとは、月に2回ほどギターリストのおじさんが来てくれて生演奏で練習できるのですが、ギターリストと話し合ってその場で振りが変わることも。
振付がコロコロ変わるのは必死に覚えている身としてはちょっと困るけれど、音楽に合わせてその時のノリで振付をこうしよう、って決めている先生を見れるのは、本場に近い感じがしてさすがだなぁと感じます。
やっぱり日本人の先生が踊るよりも迫力があるので、見ていてものすごくテンションが上がります。
踊りまくって体にたたきこむ!
基礎へのこだわりは薄いけれど、アントニオのクラスではとにかく何度も何度も同じ個所を繰り返し踊ります。頭で考えずとも体が自然に動くようになるまで踊らされる感じ。
今のクラスは毎回生徒が3~5人と少人数なので、みんなで円になって向き合って、ひとりづつ順番に踊らされることもあります。
私は日本の教室でさえ、ほんのひとパートであってもみんなに見られながら一人で踊るって苦手なんです。「間違ったら嫌だな、恥ずかしいな」って気持ちが出てしまう。
それが表情に出てしまった私を見て、アントニオに「間違ってもいいから、そんなの全く問題ないから。間違ってたら僕が直してあげるから」と言われ、この練習で音楽と一体になる、踊りに入り込むっていう感覚を初めて経験しました。
最初はみんなの視線を浴びてひとりで踊ることに硬くなっていたのですが、踊っているうちに音楽に合わせて体を動かしていることがすごく気持ちよくて、ふと先生と目があった瞬間に思わず笑顔がこぼれてしまうくらい、うわっ、めちゃくちゃ楽しい!!っていう感覚。
大げさかもしれないけれど、踊ることで気持ちを解放する感覚が分かった気がします。
これを経験できたから、フラメンコを踊ることが今までよりもっと楽しくなったし自信がつきました。
ここはフラメンコの本場ではないけれど、日本の教室では経験できなかった感覚を教えてくれたアントニオ。発表会が楽しみです。
久しぶりの日本で感じたギャップ
一時帰国は二泊三日で先週末にはベルリンに戻ってきました。
こんな短期間の日程だとフライトは長いし、時差ボケもどっちつかずで、時間の感覚を失いますね。
10か月ぶりとはいえ、久しぶりの日本で感じたちょっとしたギャップのあれこれをまとめてみます。
青空が眩しい!!
天気、気温の違い。
特に年が明けてから急に極寒になったベルリン。日本に経つ前数日間は昼間でも-10度の私にとっては前代未聞の寒さ。今年は暖冬だと思ってすっかり油断していたら・・・。駅で電車を待つ間じっと立ってられない寒さ!!
出発時のテーゲル空港は雪が降っていました。
それが一転、日本。
これまた暖冬で気温12度。あぁ、暖かい。昼間はコートもいらないくらいなポカポカ陽気でした。
そして久しぶりの青空!!
あぁ、、そうだよね、空ってちゃんとこんなに青いんだよね。ベルリンは本当にいつも曇り空でグレーだから、冬の清んだ空の眩しいこと。
日本を経つ朝も7時過ぎに家を出たらまだ少し朝焼けの残った空が美しくて。青空を見れないことに慣れてしまっていたから、日本にいる間ずっと晴れていて青空を見れることがなんだかとっても特別すばらしいことに感じました。
天気がいいっていい!!
洗面台と便座が低い!!
トイレで腰を下ろした瞬間と洗面台に身をかがめた瞬間の違和感!
低っっっ!!!
これはフランスから帰って来た時もそうだったのですが、日本人とヨーロッパ人の体格の差はこんなところに影響が出ますね。
それにしても日本の設計は低すぎるんじゃないかしら。洗面台を使うのにものすごく腰を折らないといけないので、ドイツ使用の方が使いやすいなぁと感じました。
我が家だけ?今時の家は違うのかしら。
水が優しい!!!
もうね、これは本当に1回の洗顔、洗髪で違いが分かる。
最近肌のハリがなくなった気がしてあぁ、もうそういう年ってことよね・・・と諦めていたのに日本に帰ったら一晩で肌質が復活したのには驚いた!肌のハリと化粧のノリが違う!
老化したのではなくて水のせいだったのね!
硬水のせいでコシが失われたうえ、かつてない位に傷んで引っかかっていた髪の毛。冬の乾燥も相まってボロボロだった髪の毛にはかなりストレスを感じていました。
髪の毛はドイツに来て一度も切っていなかったので10ヶ月以上伸ばしっぱなし。そりゃぁ痛みます。髪の毛だけは絶対に切って帰りたかったので美容室に行って来ました。
特にトリートメントは追加しなかったのだけれどシャンプーのときに丁寧にトリートメントしてくれたみたいで髪の毛が生き返った!ボリュームも水が変わっただけで復活!
せっかく生き返った肌と髪の毛ですが、ベルリンに戻って来たら即後退しました・・・。
家事能力が上がった!
これはドイツ生活の成果です。といってもちっとも威張れることではないのですが。
実家を出たことのない私はこれまで恥ずかしいくらいに何もかも母親に任せっきりで生きてきました。それがドイツに来てから初の一人暮らしを始めて、家事がテキパキとできるようになっていた。(ようやく人並になりました^^;)
祖母が入院してしまって、介護の必要な祖父のため私の帰国中も母は祖父の家に泊まり。ということで朝の父の送り出しは私に託されたので、私以上に何もできない父のために朝6時起きでお味噌汁を作って。おぉ、以前は朝味噌汁をつくったことなんてなかったのに!
炊飯器でご飯が炊けること、使い慣れたキッチンで料理できること、必要な調味料が全て揃っていること。いつも自分がやっていることが日本の慣れたものでできることが嬉しくて、ちょっと家事が楽しかったです。
あとは、洗濯物を晴れた空の下に干せる喜び!!
最近はすっかり日本とは離れて生活しているなぁと思っていたのですが、10か月やそこらでは簡単には長年生活してきた環境への馴染の感覚は衰えません。たった2、3日でも家に帰った瞬間に一気に馴染のある生活に戻りました。
地元に愛着なんてない、と思っているのですが、それでも、ドイツでの生活なんてなかったんじゃないかって思えてしまうくらい一瞬でかつての自分の生活環境に馴染んでしまうことに、長年生活してきた環境とのつながりの強さに少し驚きのような不思議な感覚を覚えました。
それでも、そんな自分が育ってきた環境を新鮮な目で見直す機会を与えてくれる海外生活。日本から再び”帰る場所”があるというのも初めての経験で、これまで感じたことのない感覚を体験した一時帰国でした。
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予期せぬ緊急一時帰国、祖母の入院
ドイツ滞在残りの日々が2か月をきったこのタイミングでの一時帰国。
まったく予想していなかった。
12月31日の朝一で見た母親からのLINEメッセージ。
「今日おばあちゃんが入院しました。検査したら左の肺が真っ白で肺がん末期だそうです。みかも一度帰ってくることを検討しなくちゃいけないくらい悪い状況です。」
見た瞬間頭が真っ白。
夢かと思いたかった。
メッセージを見てすぐに親に電話したときには涙が止められなかった。
大好きな祖母。
年末にちょっと体調を崩しているのは聞いていて心配していたのだけれど、いままで肺がんを患っているようなことを感じさせることなんて全くなく、少なくとも私がドイツに発つ前は元気だったのに。
全く信じられず、でもものすごくショックで、帰国するかどうか迷う余地なんかなかった。
末期がんだと分かったからってすぐに最悪の状況を迎えるわけではないけれど、それでも会えるうちに会いに行かなくちゃ。
編み物が得意な祖母。
毎年セーターを編んでくれて、暖かい祖母の手編みのセーターはドイツにも持ってきているし、ほんの1か月前にも母から「おばあちゃんがセーターを編んでくれたよ」って連絡があったし、いつもと変わらず元気でやっていると思っていたのに。
「こんなに複雑な編み図を読んで編むことができちゃうなんて、絶対に呆ける心配はないね」なんて笑っていたのに。まさか体が病んでいたなんて。
まさか。私がドイツにいる間に祖母が入院するような事態になることすら予期していなかったのに、がんだなんて。
ほんとうに信じられない。
だって、末期って、じゃぁいつからだったんだろう。
全くの兆候なしに末期なんてあり得るの?
それともおかしなところがあったのに黙っていたのだろうか。
ほんとうにほんとうに、私の記憶の中の祖母はどんなに最近の姿だって、そりゃあ腰は曲がっちゃって小っちゃかったけど、まだまだ畑仕事だってしていたし、体の中を病気にむしばまれているなんてちっとも思いもしなかったのに。
祖母への想いが込み上げてきて、帰国までの数日間もちょっと気を抜くとすぐ涙が出てきて。
大好きな祖母。
一緒に住んでいたわけではないけれど、車で20分くらいのところに住んでいて、小さい頃からよく遊びに行っていた。
結婚前は小学校の先生をしていたためか、私が小さい頃から一番勉強を見てくれた。「おばあちゃん塾」と称した週末のお泊り特訓。終わるとおこずかいをくれて、たくみにお金で釣りながら私に勉強の習慣とモチベーションを与えてくれた。
子供の頃体験した戦争の話を何度も聞かせてくれた。
読書好きだって祖母の影響だと思っている。
農業を営んでいた祖父母。
中学生になるまでは毎年稲刈りの手伝いもした。土を触ることを身近に経験しながら育ったこと。今でも田んぼの中の風景や自然の中に居心地の良さを感じるのは、そのおかげなんだろうなって思っている。
祖父母の田んぼでとれるお米のおかげて我が家はお米を買ったことなんてなかったし、お米以外にも、じゃがいも、だいこん、にんじん、きゅうり、ブロッコリー、とうもろこし・・・なんだって「おばあちゃん産」だった。
私の体は祖母がつくってくれた野菜でできている。
2年前に祖父が脳梗塞を起こし入院した。幸い軽症で今は障害が残っているもののそれ以外は元気に回復した。
そのときだって、それまで元気に畑で働いていた祖父が病院のベットに横たわっている姿を見るのがすごく辛かったのに。まさか祖母が入院する姿を見る日がこんなに早く来てしまうなんて。
ドイツに行く前、祖父の体調は心配していたけれど、祖母が体調を崩すなんて思ってもみなかった。
今でもしっかり覚えている。一緒に病院にお見舞いに行った時、病室で祖父の手を握りながら励ましていた祖母の姿。
そんな祖母の体があの時すでに病んでいたなんて。
思い出す一場面一場面が、どうして早く気づけなかったんだろうって、悔しくて仕方がない。
とても穏やかで温厚な祖母。
いつもニコニコしていて褒め上手。
子供の頃、テストで1番が取れなかったときも、「1番をとっちゃったらその上がないけれど、まだまだ上を目指せる余地があるんだからいいじゃない。」と言ってくれた。
弟が酔いつぶれてお財布携帯を取られて帰って来た時も「人のもの取っちゃう側じゃないんだからいいじゃない」って。
おばあちゃん、そういう捉え方してくれるのね(笑)って。
そういう祖母の温かい優しさに甘やかされて育ってきた。
そんな風にいろんな事を肯定的に捉えられる祖母の穏やかさを尊敬して、私もあれくらい寛大でありたいなって思って生きてきた。
あんなに穏やかでいれたらストレスも少ないだろうし、がんなんて無縁で生きていけるんだろうなって、思っていたのに。
何を思い出したって、この現実を受け入れられない。
以前、「みかちゃんがこの間産まれたばかりだと思っていたのに、もう成人式なのね」って言われたとき、そんな大げさな、って思っていたけれど。今の私にとっては、子供の頃の祖母の印象のままいつまでも元気だと思っていたのに、現実には時間と共に祖母は少しずつ老いてしまっていたんだって。
ある程度の年齢に達してからは自分の容姿は大した変化もないし、あまり時の流れが人に及ぼす変化って自分自身からは感じにくくなっていたけれど、自分より年長の人たちは確実に老いてゆく。そんな現実を直視させられた。
「みかちゃん、いい人がいたら早く結婚してよ。おじいちゃんとおばあちゃんが元気なうちに花嫁姿見せてよ」ここ数年は会うたびに言われて。
そうは言われてもそれだけは簡単には叶えてあげられない。だけどあと10年くらい大丈夫でしょって思ってた。
私の子供もおばあちゃんの手編みのセーターを着て育つんだって思っていたのに。おばあちゃんに抱っこしてもらいながらたーくさん優しさを知って育つんだと思ってたのに。
間に合わないかもしれない。
ごめんね。
そんなたくさんの想いが溢れてくる。
昨日の夜に羽田に着き、10か月ぶりの帰国。
時差ボケと寝不足と泣いたせいで重たい瞼。風邪の名残で鼻水も止まらない。
まずは祖父の家に寄り祖父と再会、それから一緒に祖母の病院に行ってきた。
久しぶりに私の顔を見て「立派になったな」なんて、もうこの年になったら10か月やそこらじゃそんなに変わらないでしょ、って思いながらも元気な祖父の姿を見れて一安心。
二言目に「おばあちゃん、入院しちゃったよ」って。初めて祖父の涙を見て私も涙をこらえられなかった。
病院は何度行っても苦手。誰であっても、元気だった人がベットに横たわっている姿を見るのは辛い。
私の顔を見て喜んでくれた祖母。「もう会えないかと思った」
そんなこと言わないで。
鼻に酸素注入のチューブを付けていて、たまに呼吸が苦しそうにしている姿を見るのは居たたまれなかった。だけどちゃんと会話はできるし、笑顔も見れた。
「おじいちゃんとおばあちゃん、あなたたちみたいな孫に恵まれて幸せよ」って。今日もそう言ってくれた。
「それは素敵なおじいちゃんとおばあちゃんに恵まれたからだよ」本気でそう思っている。そう言ってくれる祖父母の存在がどれだけ私の糧になっていることか。
「2月の末に帰ってくるから、それまでがんばってね」
もちろんもっともっと生きていてほしいけれど、せめて私が帰って来るの待っててね。
祖母の顔を見れたこと、会話できたことですこしほっとしたけれど、やっぱりふと気を抜くと涙が止まらない。涙腺て一度緩むと開きっぱなしなのね。
大切なものを失ってしまうかもしれないという恐怖は、実際に失うことよりも辛いんじゃないか。
そう思えてならない。
毎日でも祖母に会いに行たい。
だけど、まだドイツでやり残していることがあって本帰国はできないの。
長居することができないので、家族以外には知らせずこっそり帰ってきました。
せっかく帰ってきたけれど明後日の昼にはまたドイツに戻ります。
あけましておめでとうございます。花火祭りだったベルリンの年越し
あけましておめでとうございます。
だいぶ出遅れてしまいました。お正月の三が日が終わってしまいますね。
年末からひいていた風邪にも関わらず、年越しはたくさんお酒を飲んで雨の降る中花火をしたら、1日はがっつり反動が来て丸一日ベットの中で過ごすことになりました。
ダルくてダルくて、ベットの中で本を読もうにも集中できず即睡魔に襲われ。を繰り返し、何時間寝たんだろう。
今日になってやっと体調が回復してきて動く気力が出てきました。
そんなだらしない年明けで迎えてしまった2016年。
ドイツで迎える初めての新年です。
海外の年越しといえば、ニューヨーク、ロンドン、パリのような盛大な花火でわぁぁぁぁーーーーみたいな豪華なものを想像していたのですが・・・
ベルリンの年越しは、戦場さながらの花火カオス。
数か月前から「ベルリンの年越しってどんなの?(わくわく)」とまわりに聞いてみても「そこらじゅうでみんなが花火して騒いでるよ。」と。
私がイメージしていたような一か所での盛大な花火ではなく、街中でみんなが好き勝手に花火をするのだそう。
いや、いちをベルリンもブランデンブルク門の前では公式なイベントで花火があがるみたいですが、そんなのよりみんな各自花火を楽しむほうがお好みのよう。
というのも、驚いたことに、ドイツでは法律で花火をしていいのは年越しのみと決められているのだそうです。花火を規制するってどんな法律よ!?と思ってしまうのですが。だから花火を販売していいのも年末の数日間だけなのだそう。
スーパーにズラっとならぶ花火。
ほんとうに危険地帯に行くと、人に向けて花火を投げるひとがいたり、花火の打ち合いをしたりと、話に聞くだけでも理解不能なカオス状態。どこから花火が飛んでくるか分からないって・・・
「ニューイヤーズイヴはいい服は着て外に出ちゃだめだよ。万が一花火で焦げてもいい服装で、耳栓もいちを持ったほうがいいよ」って、事前にアドバイスをいただきました^^;
どこから花火がとんでくるかわからないなんて、そんな恐怖味わったら絶対ベルリン嫌いになる!と思った私は街中の人の集まるところは避け、家の近くの川沿いへと繰り出しました。
年があけるといっせいに川の対岸あちこちから花火があがり、そこら中に花火の音が響き続けます。
全然うまく写真がとれなかったのですが、1時間くらいずーっとこんなかんじで色んなところで花火があがっていました。
花火はやっぱり日本のが一番!と思いつつも、こんな風に街中が花火で溢れるっていうのは初めての体験なのでこれはこれで新鮮で楽しかったです。
1時間くらいして家に引き返すと、あたりはすっかり靄に包まれ・・・
これ、霧ではなく花火の煙です。
街がこんなに煙に包まれるくらいの量の花火をみんながそこらじゅうで上げているのです。ベルリンだけでなく、ドイツ全土がこうだというから驚きです。
ちなみに年越しは雨でした。
道路には大量の花火の残骸たち
「えっ!!花火のごみ持ち帰らないの!!??このまま放置して帰るのの!??」と驚く私に、一緒にいた友人たちは
「明日になればベルリンの清掃車が来てみんなきれいにしてくれるからいいんだよ~」
「それに花火はリサイクル可能な素材でできてるからそのまま放置されても自然に返るよ」
ってそれほんと?いくら環境大国だからってそれは過信しすぎじゃない!?
花火する時はちゃんとバケツの水も用意しなくちゃ、な日本人には驚きです。
帰り道もそこらじゅうで花火があがっていて、ここは戦場かと思うほど街中に破裂音が響きわたっています。
私にとって「花火」でイメージするのって、職人さんの作る花火大会の大きくて豪華な花火か、友達とわいわいやる手持ち花火なんだけど、ここドイツでの花火はそのどちらでもない。
その中間、個人でできる打ち上げ花火。
ドイツ人にとってはこの新年にはちゃめちゃするのが「花火」なんですね。
だから法でも規制されちゃうのね。
日本人にとっての花火って、そのものの美しさ、瞬間を楽しむものだと思うんだけど、この国の人たちは音とか花火をする行為を楽しんでいるように思います。
線香花火のはかない火の玉に投影する終わりゆく夏への哀愁の想い・・・
なんて情緒的なことは微塵も理解されないことでしょう。(季節も違うけど)
この国の花火に風情はない!
除夜の鐘の音お聞きながら迎える新年、痛いくらいに冷え切った空気の中見る初日の出、そんな日本の静かなお正月の空気が恋しいです。
「新しい」気持ちにさせてくれるぴりっとした空気。
季節とか行事って毎年毎年繰り返す中で、その空気感が自分に染みついているんだと思う。そしてカレンダーや時計なんかより、その空気が私に「あぁ、ことしもこの季節なんだ」って感じさせてくれる。ここベルリンではその空気が違うので、いまいち新年の気持ちに浸りきれずにいます。
とはいえ、新年の開始とともにドイツ生活も残り2か月をきってしまいました。ラストスパートです。
いやだいやだ帰りたくない!という気持ちと、日本に帰ってからのことが楽しみな気持ちが入り混じっています。
そしたらさっき、日本でお世話になっているお兄さんから素敵な言葉をいただきました。
ここからの2か月は『これまでの感謝』と『これからの感謝』が前に起ち、より研ぎ澄まされた感性で周りを見れるようになるよ。と。
これまでの感謝とこれからの感謝。
ほんとうに。こうしてドイツで1年間好き勝手やっている間にも日本で見守っていてくれている人たちがいる。
去年1年出会えた人々、いつも支えになってくれている人々、できた経験、そして今年の私が経験していくであろう変化。
『感謝』ありきたりな言葉かもしれないけれど、ちゃんと意識していないと忘れそうになる。だけど私に関わってくれている全ての人、出来事に感謝しています。
感謝の心を忘れずに、ステップアップの年になりますように。
今週のお題「年末年始の風景」
皇帝のもと栄えた中世の街、ニュルンベルク
あっという間に2015年が終わってしまいますね。
なんだかちっとも実感が湧きません。
ドイツではクリスマスが日本のお正月のようなかんじもあるので、クリスマスが終わってから、年末が消化試合のような感もありました。
さらに、風邪をひき動く気になれなかったこの数日。
12月中の旅行記は今年中になんとか書いてしまいたいところでしたが、ハイデルベルクは来年に持ち越しです。。
ということで、クリスマスマーケット編を書ききって燃え尽きてしまっていたのですが、せめてニュルンベルクのクリスマスマーケット以外の旅行記は書いてしまいたいと思います。
かつては、交通の要所であり商業が発達し、多くの神聖ローマ皇帝の拠点ともなり中世には重要な都市として栄えたニュルンベルク。
1933年には第一回のナチ党大会が開かれるなど、ナチスにとっても重要な街であったことから第二次世界大戦では爆撃を受け街の90%が破壊されています。しかし、そんな事実を知らなければ分からないくらい見事に中世の街並みが復元されています。
Lorenzkirche ローレンツ教会
中央駅を出て、城壁に囲まれた旧市街の中へ。Königstraßeを歩いていくと右手に現れるローレンツ教会。
1255年にゴシック様式のバシリカとして建設されたこの教会は1439年から1477年に内陣が追加され完成しました。
ドイツに来て以来ゴシック建築の教会に行く機会がほとんどなかったので、久しぶりのゴシック教会に、吸い込まれるように見入ってしまいました。
一見シンプルな教会ですが、奥へと進み内陣が目に入ると、光に満ちたその空間の豪華な装飾品たちに目を奪われました。
この教会、装飾品が豪華でまるで美術館よようでもありました。
曲線が美しいシャンデリア
キャンドルを持つ天使たち
特に有名なのが、このVeit Stoß作の受胎告知。1517年作の木製彫刻です。
装飾品だけでなく、建物の建築も目を惹きます。木の枝のようにめぐらされた天井のヴォールト。
窓の下のバルコニー部分の装飾も、よく見ると一辺一辺違う模様になっています。
天井にまで達するAdam Kraft作の聖餐壇
この聖餐壇を支えるこの男性は、Adam Kraftの自画像だと言われています。
そしてこの教会を見学している間中、オルガンの練習中で音楽が響き渡っていたんです。こんな箱の中でオルガン演奏していました。
でも音が出てくるのはバラ窓を取り囲むこのパイプオルガン。
音楽に包まれながらたっぷり1時間近く教会を見学してしまいました。
Kaiserburg 皇帝居城、カイザーブルク
ハウプト広場を後にして坂を登りカイザーブルクに向かいます。
丘の上に建つカイザーブルクからはニュルンベルクの街を一望できます。
雨なのが残念ですが、オレンジ色の屋根に教会の鐘楼、ロマンチックな街並みです。
神聖ローマ皇帝の居城だったカイザーブルク。
このお城の最も重要な部分、二重構造の礼拝堂は城内の博物館と共に見学できます。
Doppelekapelle、二重構造の礼拝堂。
入口の部屋から続くこの礼拝堂、いま立っている部分は2階部分でこの下の階にも礼拝堂があります。
下の階は宮廷に遣える人々のため、上の階は高位の貴族や皇帝一族のための礼拝堂と、当時の階級制が現われています。
下の階に降りることはできませんが、上から覗くとこんなかんじ。
この皇帝居城に居を構えた皇帝として特に有名なのがカール4世。1356年の金印勅書はここニュルンベルクで発布されました。
カール4世の金印勅書、世界史で習い名前だけはしっかり覚えているものの、その内容がなんだったか、そもそも「金印勅書」って名前はかっこいいけどなに?
と、長年の疑問だったのですが、博物館にはしっかり金印勅書の解説もありました。
こんな、金印で閉じられた文書だったんですね。
改めて、日本語での解説を引用すると金印勅書とはこんなものです。
1356年、神聖ローマ皇帝カール4世の時に定められた、神聖ローマ帝国の帝国基本法である。従来も神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は諸侯によって選出されていたが、その選出でしばしば紛争が生じ、とくに大空位時代のようにドイツ以外から選ばれたり、皇帝が選出できなかったりという異常事態が続いていた。ベーメン王から皇帝に選出されたカール4世は国王選挙手続きを成文化して混乱を避け、その権威を安定させる必要に迫られた。そこで、1355年のフランクフルトの帝国議会で原案が作成され、翌年のメッツの帝国議会で補足されて、公布されたのが「金印勅書」である。
それまで、神聖ローマ皇帝の選出についての決まりがなく、皇帝選出にあたって問題が生じることが多々あったため、皇帝選挙のルールを定めた法なんですね。
ここで皇帝を選定する選帝侯に定められたのが、マインツ、トリーア、ケルンの三聖職諸侯、プフアルツ(ライン宮中伯)、ザクセン、ブランデンブルク、ベーメン(ボヘミア)の四世俗諸侯の計七侯です。
ではなぜ金印勅書がドイツ史にとって重要なのか、その意義について
金印勅書は神聖ローマ帝国、つまりドイツの最高国家法規として位置づけられ、形式的には1806年の神聖ローマ帝国消滅時まで効力を保っていた。その規定は、神聖ローマ皇帝の選挙規定であると同時に帝国議会(諸侯会議)の規則であり、さらに選帝侯の領邦(ラント)主権を認めたものであったので、以後のドイツの分権国家としての枠組みが作られたと言ってよい。
ということで、この法によって現代ドイツの連邦制につながるような、地方分権制度が確立されたんですね。
カール4世についてもう少し。
彼はボヘミア王カレル1世でもあります。
ボヘミアは現在のチェコ西部。そうです、彼はプラハ生まれの王様なんです。金印勅書でドイツ史にも大きな功績を残していますが、プラハの発展にも欠かせない王様です。プラハ大学を創設したり、観光名所のカレル橋は彼の治世に建設されました。プラハ城内の世ヴィート教会も彼が王子だった時代に完成しています。
プラハにも行ってきたばかりなので、図らずもこうして彼の納めた2つの都市を訪れることができて、点と点が線で繋がる感じっていうのかしら。
世界史大好きだった高校時代、受験のためひたすら丸暗記するばかりだった歴史上の人物や出来事を、こうしてゆかりの地で実物(レプリカですが)を目にすることができるってすごく楽しい。
と同時に、日本とは無縁の歴史をよくもまぁあんなに頭に詰め込んでいたなとも。今こうして実際の地を訪れてみて、ようやく少しその歴史的意味だったりが分かるのに、あの頃の“勉強”って本当に中身のない表面的なものだったなぁと思ったりします。
と、自分の世界史知識の復習を兼ねた歴史の話でした。
画家アルブレヒト・デューラー作のカール大帝の肖像画。
デューラーはニュルンベルク生まれです。(なぜだかフランドルの画家だと思っていました^^;)
彼が手に持っているものも展示されています。
皇帝の王冠
皇帝についての展示の後は、武器コレクション
初めて見た、馬用の甲冑
結構真剣に展示を見学してぐったり・・・
来たのとは反対側からお城を後にし、Platz am Tiergartnertorへ。赤い木組みの家が印象的な城壁に囲まれた広場です。
この広場の一角にアルブレヒト・デューラーの家があります。
この様に、一階部分は石造りの半木造住宅はニュルンベルクの街並みの特徴で、キッチンのある一階は石造りにすることで火事の被害を防ぐ目的があるそうです。
かつてはなめし皮などの職人さんの住まいが並んでいたという、美しい景観を残したWeißgerbergasse
ニュルンベルクの旧市街を南北に分けて流れるPegnitz川に浮かぶほんのちっちゃな島Trödelmarktinselに建つ小さな塔(写真では木の陰に隠れてしまっている)はかつての死刑塔で、川岸に建つレンガの建物がHenkerhaus(死刑執行人の家)、それらをつなぐ橋はHenkersteg(死刑執行人の橋)と名付けられています。その横の木組みの家はWeinstadel(ワイン小屋)
ニュルンベルクの撮影ポイントのひとつです。
最後にHauptmarkt中央広場に戻ってきて、Frauenkirche。
1362年にカール4世の治世のもと完成したホール様式のゴシックの教会。
この教会の時計は仕掛け時計になっていて、1日1回、正午にだけ動きます。
1506年に設置されたもので、カール4世の金印勅書にちなんで、皇帝を囲むように7人の選帝侯が出てきます。
それにしても、500年以上も前からこうして毎日時を刻んでいる時計、この時計が見てきた時の流れを考えると気が遠くなりますね。
この広場にはもうひとつの見どころ、Schöne Brunnen(美しの泉)というゴシック様式で装飾された泉があるのですが、残念ながら工事中でした。
以上、世界史好きにはとても興味深いニュルンベルク。城壁に囲まれた旧市街は1日あれば見て回ることができました。街並みが美しいので歴史に興味がなくてもおすすめです。
ついついクリスマスマーケットに気をとられてしまいがちだったので、また別のシーズンにぜひお天気のいい日に行けたらいいなと、余韻を残してくれる街でした。
2015年のブログはこれが最後になりそうです。
今年は暖冬らしく暖かい日が続いていたのに今日は最高気温も2度。ちょっと外に出るのが苦になる陽気です。体調も芳しくなくバタバタと新年を迎えることになりそうですが残り数時間は一年を振り返ってみようと思います。
みなさま、よいお年を。
一人旅は旅先での出会いが楽しい
一人旅が好きです。
美しい景色や楽しい瞬間は人と共有したほうがいいという人もいるけれど、私は断然一人旅が好き。もちろん行き先にもよるけれど。
そして今回のワーホリ中、ドイツ国内を旅行していて旅先での人の出会いが楽しいなと感じることがしばしば。
今回のシュトゥットガルト旅行でもちょっとした人との出会いがいくつかありました。
①宮殿広場での謎の青年
青空に恵まれた2日目の昼下がり。
前日は雨だったので、ここぞとばかりに青空を背景に宮殿広場の写真を撮っていた私。
するとどこからかやってきて話しかけてきた青年。
片言の英語でyou take me photo, up face book
最初何を言っているのか意味がわからず???だったのですが、私のカメラで彼の写真を撮ってFacebookで送ってほしいとのこと。
私が一眼持ってるからかな?
よく分からないけど、要望に応えて何枚か彼の写真を撮ってあげました。宮殿の背景をバックにポーズを決める彼。
アフガニスタンから来ている学生さんだそうで、アラビア語しかできないと言っていました。
その場で彼の携帯からFacebookで私を検索してもらって、帰ったら写真を送るね、と言って別れました。
変なの。
最初ちょっと警戒したけれど、相手も一人だったしとりあえず自分のカバンはちゃんと閉まっていることを確認していたので、スリの手口とかではなさそう。
知らない人に私のカメラで写真を撮ってくれとお願いされたのは初めての経験ですが、こんなこともあるのね。
②お土産やさんで話しかけてきたお兄さん
駅前のTourist informationでお土産を見ていたら話しかけてきたお兄さん。
ポルシェコーナーを眺めていたら、「ポルシェミュージアムに行けばもっと色んな種類のお土産が買える?」と質問されました。
彼はマグカップに興味があるみたいで、「マグカップの種類はミュージアムでもここでも変わらないよ」と教えてあげ、そのままちょっと立ち話を。
両親がトルコから移住してきたというトルコ系のドイツ人。最近仕事でシュトゥットガルトにやってきたのだそうです。
日本人の友達がいるそうで、「日本のテクノロジーはすごいよね!インターネットの回線もすごく早いってきいたよ。ドイツのネットは遅くて全然だめ。(そうかしら?と思うのだけれど)」と日本を絶賛していました。
「またシュトゥットガルトに来ることがあったら連絡して」と彼の連絡先を教えてくれました。
男性なのでいちを警戒はしますが、その場でお茶に誘われるわけではないし、私の連絡先を教えろと言っているわけでもないので、変な人ではなさそう。これもいちをナンパなのかしら?
ドイツに来て以来、こんな風にして旅先で連絡先を教えてくれた人が数人います。
自分が普段生活している中ではドイツ人の友達をつくる機会ってなかなかないのに、こうして旅行先でドイツ人との出会いがあるのは面白いなぁ、といつも思う。
③滞在先の隣人
今回はAir bnbに宿泊。ホテルより安く一人部屋に泊まれるので最近よく利用しています。
お部屋を提供してくれたのはオリエンタルな容貌の女の子。1年のビザでドイツに来ているそうで、シュトゥットガルト周辺で仕事をしているらしい。貸してくれた部屋は学生レジデンスの様な、1フロアに数部屋あってシャワーとキッチンは共有でした。
で、部屋の扉にたどり着く前にもう一つ扉があって、それの鍵がなかなか開かずガチャガチャと数分間鍵と格闘していた私。無事に自力で開けることができたのですが、中に入ると隣人の男の子が出てきてくれていて、「ドアを開けるのに苦労してたみたいだからコツを教えてあげようと思って」と。どうやら私がガチャガチャやっている音を聞いて出てきてくれたみたいです。
名前を名乗って挨拶して、「僕の隣人の部屋に滞在しているんだね。どこからか来たの?僕たちは今日クリスマスマーケットに行ってきたよ」
なんてちょっとした会話をしておやすみ〜と部屋に戻って行きました。とても親切な隣人さん。
こんな感じで、知らない人と会話をするのが多かった1日。
一期一会でも、知らない人と話すって楽しい。主に英語だけどたまにドイツ語だったり、色んな国の人と会話ができるって楽しい。
旅はそもそも、同じ場所を訪れたってその経験がひとりひとりとてもパーソナルなものだからこそ面白いのだと思うでれど、旅先での人との出会いはその経験を何倍にも印象的に、オリジナルなものにしてくれる。
知らない土地で知らない人に出会う、このわくわく感が大好きです。